意識のはなし

こんにちは!文学部1年のいおりです。Wathematicaアドベントカレンダー2022の7/2の投稿を担当します。

 

今回は私が大好きな「意識」について書こうと思います。もっと詳しく言うと、現代における心身問題のさわりの部分を紹介します。要は意識(心)と脳がどのような関係にあるのかという話です。

 

大学に入学して三か月、まだまだどの分野についても入門レベルをよちよち勉強中ですので、ふわっとしたことしか書けませんがご容赦ください。若さと熱意だけで書きます。

 

意識は脳の物理的過程に還元できるか?

心身問題の起源

そもそも「意識についての話をします」と言われてもイメージの湧かない人が多いでしょうから、まずここで扱う意識がどういうものかについての説明をします。

心身問題、と言われるように、ここでの意識は脳と対比されています。

この構図はデカルトの実体二元論にまでさかのぼることができ、彼は身体を物理的な性質をもつ実体、心を物理的な性質を持たない実体(魂的なもの)としてそれぞれを独立なものだと区別したわけです。

 

しかし、科学が発展するにつれ彼の考えは否定されるようになりました。現代では「心や意識は脳によって生じるものだ」ということはもはや常識ですし、これを論理的な支柱をもって否定しにかかる人は(たぶん)いないでしょう。

 

ですが、現代においても、「意識はニューロンの発火など脳の神経科学的過程にすべて還元できる」という立場の人(物理主義者)と、「意識は物理的に記述されるような脳の過程には還元できない」という立場の人(二元論者)が両方いるのです。

では、還元できない派の人たちはなぜそう考えるのでしょう。それは意識のみが持つ性質のためです。

 

意識に固有の性質(ここが一番むずかしい)

意識に固有のものとして真っ先に挙げられるのは、その質的性質です。

例えば私たちが赤色を知覚するとき、数百nmの波長をもつ特定の光が網膜に入り、その後ニューロンなどによる電気的な信号の伝達を経て赤色を知覚するわけですが、それによって私たちは赤色を主観的に"経験"します。

この"経験"というのが肝で、"私たちが見ている赤色それ自体"のありようについては、ほとんど説明することができません。

 

意識に固有の質的性質とは、この物理的な記述では説明できない意識の内的経験を指します。(これがいわゆるクオリアというやつです。)

 

説明できないものを説明しようとするのってめちゃくちゃ難しいんですよ。うまく伝わっている気がしないのでいくつかの思考実験を紹介します。

クオリア逆転

AさんとBさんがいるとして、ふたりは同じりんごを見ています。そしてAさんはそのりんごを見て「あのりんごは赤いね」と言い、Bさんも「うん、あれは赤色だね」と返すわけです。

しかし、実際にAさんが見ている赤はこの赤だけれども、Bさんにはその赤が緑色に見えているかもしれない、と想定するのがこの思考実験です。

 

(そんなことが起こりうるのか?と思われるでしょうが、現実世界で実際にそうなっているかはここではさして問題ではありません。このあとに出てくる「この思考実験が言いたいこと」が重要ですので、そこをご理解ください。)

 

Bさんにはりんごの赤色が緑色に見えているとして、私たちにはそれを知る術はありません。同じ色が違う風に見えていたらどこかで違和感を覚えるだろう、と思う方もいるでしょう。しかし、例えば「火は赤色で、赤ってなんだか暖かい感じがするよね」と言っても、Bさんは生まれた時から火の赤色も緑色に見えているわけですから、同様に「火は赤色だし、暖かみのある色である」と言うでしょう。

 

この思考実験を通して、私たちは自ら説明することもできないし、外部から観測することもできない主観的かつ質的な経験(クオリア)を持つということが伝わるかと思います。

 

哲学的ゾンビ

もうひとつ紹介するのは、私たちと物理的な構造は同じですが、主観的な意識を持たない存在です。こういった存在は哲学的ゾンビと呼ばれます。

私たちが赤色を見て「あれは赤い」と言うと、ゾンビも「あれは赤色だね」と返してくれるのですが、ゾンビはその赤の波長をもった光をその他別の波長を持った光の数々と区別して理解しているだけで、「赤い」という内的な経験は持たないのです。

 

ここで、私たちはゾンビが意識を持つか持たないかを判断することはできません。ゾンビはつねられたら「痛い」と言いますし、ゾンビの頭の中を開いて調べてみても意識を持つ人間と物理的な構造は同じです。

 

 

こうして見ると、主観的な経験というものは脳の物理的過程によって規定されているとは言い切れなくなります(そもそも観測が不可能ですし)。

また、脳の電気的な信号から、それら物理的な過程とは全く性質の異なるように思えるこの内的な経験が生まれるのはなぜか?という疑問も生じると言われています。

さらに、哲学的ゾンビを想定するとそもそも意識が存在する必要がないのではないか、とも思えます。これに関しては様々な意見がありますが、意識が物理世界に何の影響も及ぼしていないとすると、それは因果的に閉じているはずの世界から意識だけがはみ出してしまうことになります。

 

意識は物理世界に影響を及ぼしていないのではないか、ということについて実際の事例もちょこっと紹介します。これは盲視と呼ばれるものです。

視野の一部が見えないとある患者に、その患者が見えないようスクリーン上にOやXなどを表示しました。もちろん患者は視野の一部が欠落しており、そこにスクリーンが設置されているので、「何があるか見えない」と言うわけです。

しかし、スクリーンに何が書いてあるかを尋ねられたとき、その患者はかなりの確率でスクリーン上にある文字を答えることができました。

このことから、患者の脳内では適切に視覚情報の入力と伝達が行われているものの、それらの主観的な経験のみが欠落していると考えられます。したがって、患者自身にはスクリーンの文字は“見えていない”けれども、スクリーンに何が書いてあるかは答えられるのです。

 

これを見ると、インプットされた情報に即した行動(アウトプット)が適切にできているのなら意識はいらないのでは…?と思えてきてしまいます。

 

(神経科学ゼミに出ていたとき、エピソード記憶があることを考えると意識や感情は必要なのではないかという話が出ました。しかしそれについても、今「感情」に関わるとされる脳の特定の部位が活発になっていさえすれば特定の記憶は想起されやすくなりますから、やはりそれから主観的な意識の必要性を説くことはできないと私は思っています。)

 

物理主義の問題

長々と書きましたが、現代でも二元論(意識は脳の物理的過程に還元されない派)が支持されているのは、物理主義的な一元論だと「私たちの経験しているこの意識が何であるか」、また「意識は物理世界にどう位置づけられるか」の説明がうまくできていないためです。

 

この問題については、いろんな哲学者や神経科学者がいろんなことを言っています。この記事を読んでくださっている方の中にも、「それは違うんじゃないか」と思ってる方はきっといるでしょう。もし疑問や反論があればぜひ私に投げてください、めちゃくちゃ喜びます。

 

二元論

物理主義だと説明できない問題があるために二元論を支持する人がいると説明しましたが、では二元論側だとうまくいくのでしょうか。

結論から言ってしまうと、二元論にも問題は多くあります。

 

現状、(意識について扱う分野は哲学だと「心の哲学」と呼ばれます)心の哲学では物理主義でも二元論でも明晰な説明を与えられないために、典型的な一元論/二元論から脱した斬新な主張が多く唱えられるようになっています。そこが一番面白ポイントではあるのですが、この記事でそれらを紹介するのは厳しそうなので、また次のアドカレか何かで書こうと思います。

 

話を戻して、二元論はどういった問題を抱えてしまうのかについて軽く説明します。

冒頭でデカルトの実体二元論を紹介しましたが、現代において彼の主張を支持する人はほとんどいません。現代で唱えられているのは、「性質二元論」というものです。

 

性質二元論では、世界を構成する要素はすべて物理的なものとしています。「意識は脳の物理的過程には還元されない」というのが二元論の主張ですが、彼らとて意識の基盤が脳であることは認めているし、脳なしで意識が存在できるとは思っていないのです。

 

しかし、先ほど見たように意識の持つ性質と物理的なものの性質は異なります。そこで、性質二元論は世界のベースは物理的なものであると認めつつ、そこから現れる性質として物理的なものと心的なもののふたつがあるとしているのです。

つまり、性質二元論とは、「心的な性質は物理的なものに依拠して存在しているものの、物理的なものに完全には還元できない」と主張する立場です。

 

これが抱える問題は明らかでしょう。

二元論の立場に立つと、物理的なものと心的なものの間の大きな隔たりを認めるわけですから、性質の違うそれらがどのようにして関係しているのか説明しなければなりません。物理的なものから性質の全く異なる心的なものが生じるのはなぜか。どうしてそれらが影響し合うことができるのか。

しかしその説明がうまくなされていないのです。

 

 

 

心身問題がなぜ問題であるのかと、典型的な一元論(物理主義)と二元論の説明をしたところで今回は終わろうと思います。

本当は先ほど述べた最近の斬新な主張たちも紹介したかったのですが、余力がないのでまた今度こういった機会をいただけたらそこで語りたいです。

 

繰り返しますが、この問題に面白いと思ったとか反論したいなどがありましたら、私に伝えてくださると大変喜びます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました!